兵庫区 町の歴史をご紹介!

交通・住まい

こんにちは!株式会社EIZINです。
兵庫区は工業地帯や大阪湾周辺の運河から内陸の森林地帯まで
、海と山に囲まれた広い地形となっています。
中央区・長田区・北区と隣接しており東西へのアクセスも良好な場所です。
そんな兵庫の町の歴史を紹介していきたいと思います。

港のまち~兵庫区~

一番知られている兵庫区の歴史は平安時代に日宋貿易の拠点として平清盛が港を構えた事や、
一時は国の政治拠点として都がおかれていた事などが有名ではないでしょうか。

しかしそれ以前・以降も兵庫区は港町として長きにわたり外交の窓口を担う中、
多くの歴史に触れる場所でした。

はじめは奈良時代に行基によって大輪田泊(現在の神戸港西部)が築かれたことが
港町兵庫の第一歩とされています。
その後、大輪田泊に目を付けた平清盛によって大改修を経て
日宋貿易の拠点となり歴史的にも注目を集める事となりました。
室町時代に入ると兵庫津を中心に多くの豪商が立ち並ぶ海運の要所として
更なる発展をとげ、江戸時代には全国有数を誇る港町として栄えました。

そうして歴史を重ね、港町として栄えた兵庫の港は諸外国より開港を求められ
1968年に兵庫開港となったのです。
これに伴って、食文化・娯楽やスポーツ等が諸外国から持ち込まれ
明治以降大きく文明開化された神戸はめざましい発展をとげ現在に至ります。
そして平成29年に開港150年を迎えました。
神戸市も『開港150周年』を大きく掲げ、多くのイベントも催されました。

県庁が置かれた兵庫城

兵庫県で有名なお城といえば、姫路城(白鷺城)・赤穂城・竹田城と
数々のお城がありますが、ここ兵庫区にもお城がありました。
現在の神戸市兵庫区中之島周辺に兵庫城が築かれていたことをご存知でしょうか。

実は、この兵庫城は初代兵庫県庁が置かれていた場所とされています。
兵庫城は1581年に築城され、池田恒興(織田家重臣)が城主をつとめました。
お城として機能したのは戦国時代の2年程と短い期間で、江戸時代には陣屋となりました。
そして明治時代に入り伊藤博文が初代知事となって、兵庫城の場所に県庁が置かれることとなりました。
1976年に廃城となり、現在お城は残っていませんが跡地には石碑と看板が設置されています。

ここで雑学を1つ。
兵庫県はお城の数が日本一なのはご存知でしょうか…
お城が多いということは昔から戦が多かったということです。
時代の変わり目の大きな決戦の舞台には、
切っても切り離せない地が兵庫県だったのです。
大きな理由としては3つの主要な道(山陰・山陽・南海)が
通る交通の結節点だったことが1つ。
そして畿内(首都圏)と大国播磨の西国等は、
諸国が勢力拡大のために必要な領地として狙っていた事も要因の1つです。
この様に【数々の国土取り合いの戦や要の地】とされていたのが、現在の兵庫県です。

日本最大の運河のまち

運河といえば北海道の小樽市を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし日本最大の運河が、ここ兵庫区にあるというのはあまり知られていません。
兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河の
5つの運河からなっており【兵庫運河】と称されています。

兵庫運河は明治初期に和田岬沖を迂回する船がたびたび波浪の難に遭う為、
バイパスとして作られたとされています。
また兵庫運河の建設は明治に入り貿易の拠点が兵庫港から神戸港へ
移行されたことにより、兵庫港周辺の経済活性化を計り着手されたことが
始まりとされていますが、工事の難航により25年がかりで完成に至りました。

そして昭和に入り第二次世界大戦後は貯木場として活用された事により、
油やゴミが浮いて生き物が住めない環境となってしまいました。
2005年より貯木場としての経済利用を減らし、
環境改善への取り組みがなされています。
現在では遊歩道が整備されたり、
水上スポーツや地域イベント等を行う場所として変化を遂げています。