兵庫区 新開地商店街をご紹介!

交通・住まい

こんにちは!
株式会社EIZINです。

今回は兵庫区の一部である、新開地商店街についてお届けしたいと思います。
かつては神戸最大の繁華街として賑わっており、現在の三宮の役割を担っていたといっても過言ではありません。
その繁栄ぶりは「東の浅草、西の新開地」と呼ばれていました。

~明治・大正~活気ある新開地商店街

1901年に湊川の付け替え工事が行われ、旧湊川の流路を整備して作られた街区です。
1907年には初小屋である「相生座」開業を皮切りに、「観商場」「電気館」「日本館」と次々に開業しました。
その後も写真館・劇場・寄席が次々に開業し、多くの文化を生み出しました。
1911年の三が日には40万人が新開地を訪れたとされており、大変な賑わいだった様です。
大正時代に入って1913年に聚楽館・1917年の松竹劇場の開業で新開地商店街は更に活気づきました。
1922年は市電新開地聚楽館前の乗降客数は1日4万人にのぼり、新開地商店街の劇場に入る客数だけでも年間400万人に達しました。
戦前には演芸場・映画館・飲食店を中心として多くの店舗が軒を連ねていました。

~昭和~繁栄に陰りが見え始めた新開地商店街

1934年には神戸初のスケートリンクが開場し、当時の話題をさらいました。
その後もスポーツランド、映画専門館等と娯楽施設が多く開業され賑わいを見せました。
しかし1943年以降、営業時間の短縮・防空演習・灯火管制・課税・興行時間制限など、太平洋戦争の戦況悪化により新開地の歓楽街にも陰りが見え始めました。
映画館では英米映画の上映も停止され娯楽は人々の生活から遠のき、1945年3月の神戸大空襲によって新開地商店街の施設の大部分を失うこととなりました。
戦後も復興を目指しましたが、市役所の移転(三宮地区へ)・市電の廃止・娯楽の多様化など様々な条件が重なり市民の足が遠のくようになってしまいました。
決定打となったのは、川崎重工の工場移転・縮小とも言われています。
今まで繁栄を極めた地元の商店街ですが、高度経済成長期による世の中の移り変わりには太刀打ちできなくなっていきました。

◆『一大歓楽街』から『いってはいけないまち』のイメージになってしまったのも、この頃からだと言われています。
今では新開地=福原(風俗街)のイメージをもってる人も多いのでは…。

~昭和・後期/平成~再生をめざして

1980年代の昭和後期には、このままではいけないと地元の商店主たちが【新開地周辺地区まちづくり協議会】を立ち上げました。
《アート・遊び・都市居住》3本柱で再生に臨みました。
コーポラティブハウス神戸・新開地モールの竣工など、再開発計画に向けての準備が進みました。
しかし、様々な問題を乗り越えようと動き出した矢先に1995年の阪神淡路大震災をむかえます。
震災によって甚大な被害を受けてしまい、地区の7割強が全半壊。
またしても新開地商店街は苦境に立たされることになりました。

※新開地周辺地区まちづくり協議会…神戸市の条例に基づくまちづくり団体

◆諦めない!復興から愛されるまちを目指して◆

神戸大空襲・阪神淡路大震災など幾多の大災害に見舞われた新開地商店街ですが、屈することなく復興にむけて動き続けています。
その結果、長年空き地となっていた箇所の土地利用・開発が行われたり、寄付金をもとにまちづくりのための会館を購入したりと、新開地を大切に思う多くの人の手によって再生に向けた取り組みが行われました。

こうして歴史ある新開地商店街は2005年に生誕100年を迎えました。

話題のB級グルメ発祥の地!!

新開地のB級グルメといえば…
・ブラックそば焼き
・貝つぼ焼
・味噌味豚まん
・薄焼きオムライス
・味噌ダレ餃子
・ざく切り焼き豚
・ピロシキ
などが挙げられます。

B級グルメ…どれも美味しそうで気になりますね(*’ω’*)

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